紫陽花の切り花をはじめて買った
今年の関東地方、梅雨入りは遅くなるとか云ってたのに、前の記事を書いた翌日に梅雨入り。
昨日も各局ニュースでそれぞれの気象予報士がみな「夏日になる」って云ってたけど、昨日は肌寒い一日だった。
ここ何年か、とても天気予報は精度がよくて宛にできていたのに、このところはよく外すなあという印象。読みの精度の問題か、はたまた彼らが云うように「読むのが難しい天気図の日々」だからなのか。
先週、ほぼ平年並みに梅雨入りした割に、以降はまとまって雨が降る日はそんなになくて。
降りそうで降らなくて、でも今までのこの季節のように虹がみられる日は今年はまだない。
夏と冬という極端な季節の間にある秋と春が、年々少なくなっているとニュースで云っていた。
正しくは「秋らしい、春らしいと感じる日が減っているように感じる」なんだろうけど。
一言で括れば「環境の変化」も、これまた時代の移り変わりの1つとして捉えるべきなのかもしれない。
この国の人口も減っていて、気づけば先進国内での収入が一番低くなっていたこの国。
賃金は上がらないのに物価だけが高くなっていき、あくせく働くことよりも如何にラクに生き延びるかを模索する人が増えていて。生活保護受けながらホスト通いする20代とかパチンコ三昧の人らがゴロゴロ出てきている始末・・・
フツーに考えればこの国は末期症状が見えていて、どこかでメス入れて制度見直して大きく舵取り変えていかないと、この先が怖いとしか思えないことばかりが起きている。
0学で見れば、今とこれからしばらく続く「帰蔵易(きぞうえき)の時代」は別名が「滅びの時代」。
前回の帰蔵易時代以降100年くらいの間に築かれてきた時代背景や価値観は、すべてが覆されていくような時代。
戦前~戦後、高度経済成長期、バブル期、弾けてから今と、その時その時で大切とされる生き方・考え方・価値観があるけれど、どれもが今となっては時代遅れで価値をなさなくなっている。
恋愛や結婚も当然そうで、当たり前のようにあった恋愛も、今や必要としない・重要とは思わない発想の人たちが増えてきているという。
二次元、ロボットと相手が生身である必要はなく、むしろ生身の人間のほうが煩わしくて面倒だという話も耳にする。
うん、そう考えてしまう気持ちも私は解らんではないけど。
この今の帰蔵易時代が終盤を迎えるころ(2045年前後)には、人の温もりや情というものの大切さがまた新たに見直されていく発想にならざるを得なくなるだろう。
それまでは、今のこの、なんとなくザラザラとした手触りのような心地があまりよくない時代の中で、自分と自分の大切な人との生活を守りながら生きていくことを念頭にするだけでいいように思う。
大切な人とは、家族もだし愛する人もだし、自分の所属するコミュニティもね。
自分が見ていられる周囲と、自分を見てくれている枠の中の人たち。
それ以上は手を伸ばしても、なかなか今までのように深く関わりあうことは難しいだろうし、自分を含めた皆が皆、自分らのことだけでいっぱいになりやすいことが見えるよね。
個人的には、3~40代のうちに行きたいところへ行って、学びたいことを学んで、それなりの見聞を拡げられてよかったと思うことと、いろいろ早めに片付けて今の居住地へ移っておいてよかったと本当に思っている。
これは私自身が、0学で知った自分にとっての必要な生き方と、持っているけど出すべきでない言動の癖をなんとか使い分けた結果だと思っている。
魔法ではないから即効性はないし、今の結果はこれからしか解らないという当然の流れの中で用いる「今とこれからやるべきこと」を私自身で実行し、鑑定でもお教えしているだけのこと。
意識して継続しなければ結果が出ないことは、ダイエットや趣味なんかと同じ。
私に近しい人の何人かが「よく続けられるわね」「継続力があるのね」と云ってくれることがあるけれど、いや、むしろ私は本来は気が短く単細胞で1つのことをコツコツ・・・ができない性分。
それでも0学をもとにしたことを続けていられるのは、0学が好きで信じていられるからだろう。
0学からそれなりの結果も得ていて、今の自分がとても自由で気楽でのんびりとしていられる状態を0学で作り上げてきた自負もありつつ。
気が付けば、0学を学び始めて20年、0学会に籍を置いて17年目に入った。
毎日が勉強。接するすべてが教材な日々は、きっと一生。
それは有難く、しあわせなことでもある。
あ、テーマと中身はまったく関係ないっす。はい。
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